3年生時代 その⑮ 遊ぶ!

父に読んで聞かせた子リスの作文にあるように、子リスにとって3年生時代は、友達と遊ぶことの楽しさに目覚めた時期だったようです。

 1~2年生の頃の子リスは、学校から帰ると、「さあ、やっと僕の自由な世界!」とでも言わんばかりに自分のやりたいことに喜々として向かい、時には体を使って、時には静かに、一人の“プロジェクト”を楽しんでいました。
 学校で「今日遊べる?」「うん!」「じゃ公園で!」と約束をして、家に帰ったらランドセルを放り投げ、「気を付けて行きなさいよ!」の声を背中で聞いて遊びに出て行く・・・そんな日は、いつかは子リスに訪れるのだろうか。学校から帰って、家の中で一人で遊ぶ子リスを見ながら、不安に押しつぶされそうになった日もありました。
 前に書いたように、子リスと二人の空間は、それはそれで貴重なものでしたが、そうは言っても「ずっとこのままでよい」と思っていた筈はなく、子リスがこの空間を出て外の世界で揉まれる方向へ、いずれは導いていかなくてはならないと、私は時折思い出しては、自分自身に言い聞かせていました。

 でも、そのために私や子リス自身が努力したことがこの時期あっただろうか?…と考えると、思い当たることは何もないのですが、何故か子リスは3年生になってから、放課後に友達と遊ぶことが急激に増えていました。 同じマンションのT君とはそれまで通り、毎週水曜日に、かわりばんこにお互いの家に行って遊んでいましたし、それに加えて、これまで何度か登場してくれているR君やS君、更にその友達数人と近くの公園に行って、「夕焼けチャイム」の時間まで遊んで来る日がぐっと増えました。
 時にはR君が、友達の家に遊びに連れて行ってくれることもありました。そんな約束ができた時は、子リスは学校から帰ってくると、靴を脱ぐのもそこそこに「今日遊びに行くから。」と、照れたような、ニコニコしたいのをこらえているような顔で部屋に入って来たものでした。

  ずっと後になってから、ある小学校の先生から聞いたところによると、3年生はいわゆる「ギャングエイジ」と呼ばれる学齢で、本能的に群れて遊びたくなる年頃なのだそうです。
  話せても話せなくても、とにかく仲間と団子になって遊びたい、そんな小学3年生の集団の中に子リスもいることができたんだなあ、と今頃になってしみじみとありがたく思ったりしています。

 

 ところで、当時私が子リスの小学校生活に望んでいたことは「学校で楽しく過ごして来ること、友達と楽しく遊べること」が第一でした。将来を考えれば大きな不安に襲われ、「もしこのままだったら…」と暗澹とすることも勿論ありました。でも心配すればキリがなく、(また、心配し続けるのも疲れるので)とにかく今は学校を楽しむことを最大の目標にしようと思い直して…それを繰り返しているうちに、スモール・ステップを感じられるように(平たく言えば「多くを望まない」ように)、子リスによって慣らされていたのだと思います。
 だから遊んで帰って来る子リスを見ては、「ようやくここまで来た!ヨカッタヨカッタ」と、満足して迎えていたものですが、今になって浮かんでくる素朴なギモンがあります。「遊んでいた時、何もしゃべらずに過ごしていたのだろうか?」「そもそも、どうやって約束して来ていたのだろうか?」

 今の子リスに聞いてみます。
私:「そう言えば、R君とかS君とか以外の子の家に遊びに行ったこともあったよねえ。」

子リス:「R君は顔が広かったからね。R君のおかげで、クラスの何人かの家に行って遊んだこともあった。そういう時は普通に出来てたんだよね」

私:「え?普通に喋ってた?」

子リス:「いや、喋ってたというか…喋ってはいない。例えばトランプとかしてて、『子リス、パスするの?』なんて聞かれたら、黙って頷くんじゃなくて『ウン』って言うとか、声を出して反応してたってこと。」

私:「なるほど。」

子リス:「で、友達が、『あ。今子リス声出した!』とか言うんだけど、前みたいにそれで慌てて手で口を覆ったりはしない。」


私:「へー。」

子リス:「でも公園でもっと大勢になると、『声出さないモード』。でも喋らなくても、鬼ごっことかは関係なく遊べるからね。楽しかった。」

私:「ふむふむ。」

 私の目の全く届かないところでも、密かに、無意識に、スモール・ステップを実践していたということか…。
  改めて、私に見えていた世界がほんの一部だったことを思い知らされた気がしました。

さっきの会話の続きです。

子リス:「それにしても、クラスの中には何十人もいる訳で、もっと普通に楽しく遊べる友達がいたはずなんだけど、R君とかS君はよくこんな奇妙なヤツと遊んでくれたもんだよね…。」

私:「あー、そうだねえ。」

子リス:「嬉しいことではあるんだけど、不思議だなあと思って、単純に。」

それがコドモの不思議なところ、素晴らしいところなのかもしれません。

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