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2013年06月 アーカイブ

2013年06月30日

2年生時代 ③ お箸 

 或る日、子リスは給食用のお箸を学校に持って行くのを忘れてしまいました。お箸を忘れた子は職員室に行き、学校のお箸を貸してもらわなければなりません。担任のM先生は、普段から何かと子リスの力になってくれているクラスメートのR君に、付き添いとして一緒に行ってくれるよう頼んで下さいました。

 二人が職員室に入って行くと、教頭先生がいらしたので、話せない子リスの代わりに、R君が
「子リス君がお箸を忘れたので、貸して下さい」
と言ってくれたのだそうです。すると教頭先生はR君に、
「どうして君が言うの?」
と聞きました。それでR君は、
「子リス君は、はずかしいからです。」
と答えました。
(その頃、「どうして子リス君は喋らないのか」という子ども達の疑問に対して、「恥ずかしいから」という答えがどこからともなく― 先生からだったのか、友達からだったのか、それとも私が口にしたことがあったのか、よく覚えていないのですが ―出て来ていて、子ども達が“とりあえず”納得する理由として使われていたことを記憶しています。)

 それに対して教頭先生は、
「そういう理由じゃあ貸してあげられないなあ」
と怖い顔で言い、子リスに、話すよう促しました。

 でも当時の子リスにとっては、それは相当ハードルの高い話です。お箸を忘れたことで既にとんでもなく動揺している状態で、それを先生に伝えて、さらにお箸を貸して欲しいとお願いするなんて、ステップ数段分の難題です。
 結局、喋れない(喋らない、と映ったのかもしれませんが)子リスに業を煮やして、教頭先生は
「じゃあ今度だけ」と、お箸を貸してくれました。

 職員室を出ると、R君はおおいに憤慨し、
「オレ、ああいう先生キライだな」
と言ったそうです。
 R君の言葉に救われたのでしょう、子リスはその後教室に戻って、普通に給食を食べることが出来ました。

 子リスの緘黙症については、校長先生も教頭先生もご存じの筈でした。
 話す気がないのではない、声が出ないのだ、ということも、現段階での方針も、伝わっている筈でした。その上での教頭先生のこの対応は、問題をちゃんとは理解して下さっていなかったということのか、それとも単に忘れていたのか、いずれにしても、解せないものでした。
 …が、このような対応をされることは、まあそういう先生もいるだろうという、いわば「想定内」のものではありました。それでいいということではありませんが、喋れないことで辛い思いやみじめな思いをする経験は、やはり避けられないことで、(親としては)ある程度慣れや覚悟が出来ていったからです。

 ところで、この「お箸事件」は、子リスが2年生の時の出来事ですが、実はこれを子リスが私に話してくれたのは、つい最近のことです。
「そういえば、急に思い出したんだけど」と言って、数週間前の或る日、突然、このお箸の一件について教えてくれました。話を聞いて私は、
「な~にぃ~!?〇〇教頭め!」と、小さい子リスが辛い思いをした場面を思って、つい乱暴な言葉を口走ってしまい、それを聞いた子リスは「もう6年も前のことだよ」と笑っていましたが…

 私には、教頭先生の対応そのものよりも、この出来事を、今になるまで子リスが私に言わなかったことの方が、心に残りました。
 学校で起こったことで、帰ってから私に言わなかった、言えなかったことが、他にどれだけあったのかなあ。先生に叱られたことを言わなかったのは、幼いなりのプライドだったのか…それとも、言ったらママががっかりすると思ったのかしら。

学校で喋れないことを、家で叱ったりするようなことはしない。「今日は喋れた?」などとチェックも一切しない。「喋ること」を必要以上に意識させず、学校生活の一部ととらえる。

 子リスの場面緘黙症の問題に取り組み始めた時から、これだけは一貫して心がけて来たことでした。それでも、喋れないということは、本人にとってはやっぱり辛く、自尊心の傷つくこともあったのだ…毎日いろいろな思いをしながら、学校生活を送っていたのだろう…と、改めて感じました。そして、今更ながらに学校での子リスの様子を想像しながら、当時の子リスの気持ちを、私は十分に受け止めていたのだろうか、と考えると、まるで余裕のなかった自分の姿が思い出され、後悔のため息が出てしまうのです。

 先生の対応が理不尽だ、というようなことを自分で考えるようになるのは、早くても小学校高学年か、中学生になってからでしょう。
 少なくとも、小学校2年生では、
「先生のその言い方はひどいと思う」などと、先生を批判する気持ちにはならないだろうと思ったので、子リスに
「その時、どう思ったの?」
と聞いてみました。すると子リスは、
「『そうか、自分はだめなんだなあ』って。」

 幸いにも子リスは、各年の担任の先生方が、「喋ること」以外のいろいろな場面(絵や係りの仕事など)で、褒めたり、楽しむことを教えたり、という、とても有難い、大切なことをして下さったので、お箸の一件などは、「嬉しいことも辛いこともある学校生活の経験の一つ」に位置づけられることが出来たのだと思います。
 でももし、喋れないことを責められる経験だけが重なって行けば、自己評価に影響を及ぼすことは容易に想像がつきます。小学生、殊に低学年の子ども達にとって、学校の先生は第二の親のようなもの。学校では先生を頼らなければ生きていけないものだと思います。
子どもにとっての、学校というものの存在の大きさについて、考えさせられた一件でもありました。

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