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2013年08月 アーカイブ

2013年08月27日

2年生時代 その⑤ 「敏感さ」について 

 子リスは、運動会でのピストルだけでなく、大きな音は全て苦手でした。花火の音、お祭りの太鼓や踊りの音楽の音、風船が割れる音(だからお店で子どもに配っている風船など、決してもらいませんでした)、人の怒鳴り声、バイクの音など、10歳ぐらいまでは、大騒ぎをして嫌がったものです。「音」だけではなく、「におい」にも敏感でした。初めての食べ物の匂い、動物の匂い、私の新しいハンドクリームの匂い… 
 それらの「刺激」に対して、子リスが(こちらから見ると)「過剰に」反応していると感じる時、一体どう対応したらよいのか、というのは、子リスが小さい頃からの「悩みどころ」でした。
 とにかく怖がり方が尋常でない、と私達は感じてしまうのです。「大丈夫、大丈夫」となだめるチャンスも与えられないような、そしてこちらが動揺して心臓がドキドキしてしまうような騒ぎ方。私達が、それにどう対応して来たかを思い起こしてみると…結局「そういう時はこうしよう」というルールは持てず、「いろいろ」でした。

 例えば花火の音でも(子リスは、怖いのに花火を楽しみにしていて、必ずベランダから見る、と自分で決めていたところが不思議なのですが)、耳栓をさせてみたり、それでも怖がると「こんなことぐらいで怖がっていては将来が心配だ」という気がしてきて、「大丈夫だから騒がない!」と叱ってみたり、挙句の果てには夫と私の考えが違って夫婦喧嘩になってしまったり。
 匂いにしても、動物園で特に匂いが強いところではハンカチで鼻を覆わせてみたり、これもまた反対に、「騒ぐな!」と怒鳴ってみたり。

 考えてみると、全然一貫性がありませんでした。「怖い」という子リスの気持ちは伝わって来るし、小さい子どもにとっての、身の回りに起こることへの恐怖の大きさは理解したい。でも、乗り越えて欲しい、いろんなことを平気になって欲しい、というのも親心です。結局、ある程度は受け入れ、その先は叱ったり励ましたり、結局こちらが耐え切れずに「切れて」怒ったりと…つまりは「いろいろな」対応になりました。

 どうすればよかったのか?今でもはっきりとはわかりません。ただ時々、夫と当時を思い出して話すのは、「どうするかはどっちでもよかったのかもね。」ということです。例えば「花火の音が怖い」と子リスが言った時に、耳栓をさせるかどうか、それをめぐって夫婦で対立したりしていたけれど、そしてその時は、ここでどうするかがこの子の一生を左右するかのように感じたりしていたけれど、どちらをとったからといって、それが将来子どもの人間形成に悪影響を…などということは、まずなかったであろうと思います。
 それよりも、子どもが怖いと言った時、『そうか、怖いんだね』と受け入れて、恐怖をわかってもらった安心感を与えることが大切だったのではないか、と思います。残念ながら、それが十分に出来たと言えないのが心の痛むところです。

 そんな中でたった一つ、結果的に(あくまでも結果的にです)、これはよかったのかもしれないなあ、と思っているのが、「それでも花火を見せたり、動物園に行ったりということをやめなかった」ということです。
 不思議なことに、子リスはそれでも毎年花火を見たいと言い、休みの日になれば動物園に行きたいと言うのでしたが、「また騒ぐからやめさせよう」ということは、何故かしませんでした。行きたい、見たい、という気持ちは大事にしたいと思ったことだけは覚えています。
 大人の私達だって、新しいことにチャレンジする時、「やってみたい。でも怖い」と思うことはたくさんあります。それが、海外への一人旅だろうと、新しい習い事だろうと、人前で話すことだろうと、何だってそうです。大人だから、騒ぐことはしませんが、緊張して汗をかいたり、声が上ずったり、涙が出てきたり…ということはあります。多分、それと同じことなんだろうなあと、今思います。
 大人だったら、自分で恐怖を乗り越えられるように何らかの工夫をするでしょうし、誰かがそんな状況にいたら、「でもやりたいことはやった方がいいよ」などとアドバイスすることも多いでしょう。子どもにも同じことは言えると思います。
 恐怖心はあるけれど、それでもその場にいることはやめない。外へ出て行くことは続ける。ただし「今日はどうしてもだめ…!」という時は無理をしない。そうしているうちに、何かがきっかけになったり、必ず訪れる自分自身の変化(成長)によって、「怖いけど、大丈夫」になり、いずれ「怖くない」になる日が、必ず来ると思うのです。親の私達にできるのは、子どものやりたい気持ちがいつか勝つ日まで、ひたすら見守ることなのかもしれません。

 もしかしたら、音や匂い、その他身の回りのいろいろな刺激を「過敏に」感じてしまうとしたら、むしろそれは、「平気」である人には感じることの出来ないものまでを感じているということなのかもしれません。また、「怖さ」は「想像力」が作るものだと、聞いたことがあります。迫ってくる花火の美しさや体中に響く音、動物の顔や姿への驚き、匂い、他人の動きや気持ちなどが、想像力も交えてずっと鮮烈な印象で心に映っているとしたら、それは「敏感な」人にしか持てない、素晴らしい感覚なのではないかと想います。(本人や親はそのためにいろいろと苦労もしますが…)更に言うなら、ある程度のネガティブな経験さえも、それを糧にしていろいろな場面で生かしていくことが出来る可能性があるとも思うのです。

 回数を重ねて行くうちに、いろいろなことは「平気に」なっていくのですが、「平気でなかった、こわかった」記憶も、子どもの頃の宝の一つとなっていくような気がします。私自身、子どもの頃はいろいろなものが怖くて、特に小学校に入ってからは「世の中って怖いなあ。居にくいなあ」といつも感じていました。その頃のあれやこれやの経験は、(怖かったこと自体も、それを責められたことも、です)ないよりはあってよかったと、今は思っています。

 いろいろなことへの恐怖が、身の回りのことに敏感に気づき、感じることから生まれているということを、認めて、受け止めて、「大丈夫、大丈夫」と言い続けながら見守り、でも同時に、それでもその場にいられる強さを持つように導く、ということが出来たら、親としては理想的だったんだろうなあ、と思います。
 現在の子リスは、もう花火の音も平気、動物園も何も心配せずに楽しみ、馴染みのない匂いがしても「何だろう?」と言うだけになりました。でも、今度は思春期を迎えて、恐怖心や不安は別の状況や形で表れています。心配は尽きませんが、子リスが小さかった頃の自分たちの対応についての反省を生かして、あの時より少しはマシな導き方(見守り方)が出来たらいいなあ、と願いながら、日々子リスを観察しつつ、可愛がって(?)いるところです。

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