これまで、先生との面談の様子を何度か紹介してきました。また前回は、学校に対する親としての姿勢に関して、私が心掛けていたことを書きました。それらは全て、当時の自分にとって実際に役に立ったと思われることです。が、では私がいつでも落ち着いて、信念を持って先生達と向き合っていたのかというと、残念ながらそうではありませんでした。それには、私自身の性格も大いに関係があると思っています…。
子リスが1年生の時の担任のA先生には、学生時代に突然話せなくなった期間があり、それを自分で工夫し、努力して克服したという経験がありました。そんな運命的な偶然もがありましたが、それだけではなく、子リスの問題に関して(子リスだけではなく、子ども達みんなに対して)とても真摯に向き合って下さいました。子どもの緘黙症に関してもよく勉強していらして、子リスの成長記録もつけてくださっていました。小学校生活の第一歩である一年生時代を、A先生の教室で過ごせたのは、子リスにとっても私達にとっても、本当に幸運で、有難いことでした。
そんな先生に出会えたのは奇跡に近いことだったのだ、ずっとこのままは行かないのだと、頭ではわかってはいたのですが…他の先生と向き合った時に、A先生とは違うトーンを感じ、ついショックを受けてしまったことも、実は何度かあります。
別に大したことを言われたわけではないのです。「A先生のようには出来ないと思います」とか、面談に関して「毎月とかでなくてもいいと思いますよ」とか、そんな程度のことです。それから、学校での子リスの様子を先生に聞いた時に、「大丈夫ですよ。楽しそうですよ。」などと言われると、何だかとても不安になったものでした。先生の言葉は、今特に伝えなければならない心配なことはありません、という意味に違いないのに、子リスの問題をすごく軽く捉えられているように感じてしまい、「やっぱり他人事なのかな…」「治らなくてもいいと思っていませんか…?」などという疑念がよぎったりするのです。不安な親の心理としてはあり得るものかもしれませんが、そもそも私は楽観的か悲観的か、と言えば後者。少し被害妄想もあり。殊に対人関係には自信がない。太陽というよりは薄雲。そんな性格なものだから、基本的に委縮しやすく、心配を跳ね除け、希望を持って前を向いてやっていくというのが、何につけタイヘンなのです…。
そんな“ネガティブな私”にとって、気持ちを整理する上で大きな助けになったのが、前回書いた「絶対にこれだけはライン」でした。大きな不安に飲み込まれそうになる時に、「最低、これだけは守ろう。守ってもらおう」という、しがみつく杭のようなものが、誰よりも私に必要でした。
そしてそれは結果的に、先生方にとっても、学年最初の第一歩をスムーズに踏み出す助けになったのではないかと思っています。やって欲しいことと、決してやらないで欲しいこと。少々乱暴な言い方になりますが、「要するにこれさえやってくれればいいのです」「これだけはやらないでもらえればいいんです」ということがはっきりすると、緘黙症に関してあまり知識や経験のなかった先生にも、安心の色、協力して下さろうという気持ちが見えてくる、という印象がありました。
なるべく早い段階で、「教室ではこの子をどう扱えばよいのか」が具体的に把握されることはとても大切だと思います。その方針は必ずしも親の側が示さなければならないものではないので、あくまでも一つの形としてですが、初めに親が方針を提示し、後は信頼して先生にお任せします、というやり方は、よいスタートがきれる可能性を高める一つの形だろうと考えています。
小さなことを気にしてしまう性格や、すぐに心配が大きく膨らんでしまう癖をかかえつつ、何とか「杭」にしがみついてやっていくことは、私自身に与えられた課題でもあったのかもしれません。