2年生時代 その⑤ 「敏感さ」について

 子リスは、運動会でのピストルだけでなく、大きな音は全て苦手でした。花火の音、お祭りの太鼓や踊りの音楽の音、風船が割れる音(だからお店で子どもに配っている風船など、決してもらいませんでした)、人の怒鳴り声、バイクの音など、10歳ぐらいまでは、大騒ぎをして嫌がったものです。「音」だけではなく、「におい」にも敏感でした。初めての食べ物の匂い、動物の匂い、私の新しいハンドクリームの匂い… 
 それらの「刺激」に対して、子リスが(こちらから見ると)「過剰に」反応していると感じる時、一体どう対応したらよいのか、というのは、子リスが小さい頃からの「悩みどころ」でした。
 とにかく怖がり方が尋常でない、と私達は感じてしまうのです。「大丈夫、大丈夫」となだめるチャンスも与えられないような、そしてこちらが動揺して心臓がドキドキしてしまうような騒ぎ方。私達が、それにどう対応して来たかを思い起こしてみると…結局「そういう時はこうしよう」というルールは持てず、「いろいろ」でした。

 例えば花火の音でも(子リスは、怖いのに花火を楽しみにしていて、必ずベランダから見る、と自分で決めていたところが不思議なのですが)、耳栓をさせてみたり、それでも怖がると「こんなことぐらいで怖がっていては将来が心配だ」という気がしてきて、「大丈夫だから騒がない!」と叱ってみたり、挙句の果てには夫と私の考えが違って夫婦喧嘩になってしまったり。
 匂いにしても、動物園で特に匂いが強いところではハンカチで鼻を覆わせてみたり、これもまた反対に、「騒ぐな!」と怒鳴ってみたり。

 考えてみると、全然一貫性がありませんでした。「怖い」という子リスの気持ちは伝わって来るし、小さい子どもにとっての、身の回りに起こることへの恐怖の大きさは理解したい。でも、乗り越えて欲しい、いろんなことを平気になって欲しい、というのも親心です。結局、ある程度は受け入れ、その先は叱ったり励ましたり、結局こちらが耐え切れずに「切れて」怒ったりと…つまりは「いろいろな」対応になりました。

 どうすればよかったのか?今でもはっきりとはわかりません。ただ時々、夫と当時を思い出して話すのは、「どうするかはどっちでもよかったのかもね。」ということです。例えば「花火の音が怖い」と子リスが言った時に、耳栓をさせるかどうか、それをめぐって夫婦で対立したりしていたけれど、そしてその時は、ここでどうするかがこの子の一生を左右するかのように感じたりしていたけれど、どちらをとったからといって、それが将来子どもの人間形成に悪影響を…などということは、まずなかったであろうと思います。
 それよりも、子どもが怖いと言った時、『そうか、怖いんだね』と受け入れて、恐怖をわかってもらった安心感を与えることが大切だったのではないか、と思います。残念ながら、それが十分に出来たと言えないのが心の痛むところです。

 そんな中でたった一つ、結果的に(あくまでも結果的にです)、これはよかったのかもしれないなあ、と思っているのが、「それでも花火を見せたり、動物園に行ったりということをやめなかった」ということです。
 不思議なことに、子リスはそれでも毎年花火を見たいと言い、休みの日になれば動物園に行きたいと言うのでしたが、「また騒ぐからやめさせよう」ということは、何故かしませんでした。行きたい、見たい、という気持ちは大事にしたいと思ったことだけは覚えています。
 大人の私達だって、新しいことにチャレンジする時、「やってみたい。でも怖い」と思うことはたくさんあります。それが、海外への一人旅だろうと、新しい習い事だろうと、人前で話すことだろうと、何だってそうです。大人だから、騒ぐことはしませんが、緊張して汗をかいたり、声が上ずったり、涙が出てきたり…ということはあります。多分、それと同じことなんだろうなあと、今思います。
 大人だったら、自分で恐怖を乗り越えられるように何らかの工夫をするでしょうし、誰かがそんな状況にいたら、「でもやりたいことはやった方がいいよ」などとアドバイスすることも多いでしょう。子どもにも同じことは言えると思います。
 恐怖心はあるけれど、それでもその場にいることはやめない。外へ出て行くことは続ける。ただし「今日はどうしてもだめ…!」という時は無理をしない。そうしているうちに、何かがきっかけになったり、必ず訪れる自分自身の変化(成長)によって、「怖いけど、大丈夫」になり、いずれ「怖くない」になる日が、必ず来ると思うのです。親の私達にできるのは、子どものやりたい気持ちがいつか勝つ日まで、ひたすら見守ることなのかもしれません。

 もしかしたら、音や匂い、その他身の回りのいろいろな刺激を「過敏に」感じてしまうとしたら、むしろそれは、「平気」である人には感じることの出来ないものまでを感じているということなのかもしれません。また、「怖さ」は「想像力」が作るものだと、聞いたことがあります。迫ってくる花火の美しさや体中に響く音、動物の顔や姿への驚き、匂い、他人の動きや気持ちなどが、想像力も交えてずっと鮮烈な印象で心に映っているとしたら、それは「敏感な」人にしか持てない、素晴らしい感覚なのではないかと想います。(本人や親はそのためにいろいろと苦労もしますが…)更に言うなら、ある程度のネガティブな経験さえも、それを糧にしていろいろな場面で生かしていくことが出来る可能性があるとも思うのです。

 回数を重ねて行くうちに、いろいろなことは「平気に」なっていくのですが、「平気でなかった、こわかった」記憶も、子どもの頃の宝の一つとなっていくような気がします。私自身、子どもの頃はいろいろなものが怖くて、特に小学校に入ってからは「世の中って怖いなあ。居にくいなあ」といつも感じていました。その頃のあれやこれやの経験は、(怖かったこと自体も、それを責められたことも、です)ないよりはあってよかったと、今は思っています。

 いろいろなことへの恐怖が、身の回りのことに敏感に気づき、感じることから生まれているということを、認めて、受け止めて、「大丈夫、大丈夫」と言い続けながら見守り、でも同時に、それでもその場にいられる強さを持つように導く、ということが出来たら、親としては理想的だったんだろうなあ、と思います。
 現在の子リスは、もう花火の音も平気、動物園も何も心配せずに楽しみ、馴染みのない匂いがしても「何だろう?」と言うだけになりました。でも、今度は思春期を迎えて、恐怖心や不安は別の状況や形で表れています。心配は尽きませんが、子リスが小さかった頃の自分たちの対応についての反省を生かして、あの時より少しはマシな導き方(見守り方)が出来たらいいなあ、と願いながら、日々子リスを観察しつつ、可愛がって(?)いるところです。

4 COMMENTS

yasutomi

いつも大変お世話になっております。

うちの子は、子りす君のように音や匂いには敏感ではありませんでしたが、幼稚園や学校では緊張しているというところが敏感(何気なく言った言葉でからかわれたとか、これを言ったら変に思われる…)だったのかな?と思います。
(実は私も小さい頃そうでした。)
でも、そこでお母さんリスさんとは違って、私はそれを避けてきました。そんなに緊張するなら緊張するもとを断とうと…嫌なら無理に友達を作らなくていいと…

あれから約7年、やっと自分がしてきた間違いに気付きました。
子供には申し訳ないことをしてきたと後悔しています。

苦手とか嫌いでも、続けていれば好きになるかもしれない。
辞めてしまうということは、そこでその成長がストップしてしまうんですね。
この失敗を経て、子供も私も失敗を恐れず、何事も経験していきたいと思います。
乱文ですいませんでした。

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おかあさんリス

コメント、ありがとうございます!!

>嫌なら無理に友達を作らなくていいと…

それは、私の中にもいつもあった気持ちだったことを思い出します。
yasutomiさんが、ご自身もそうであったとおっしゃることは、私自身にも当てはまります。私も、周りの人の言葉や、集団の中の自分というものに過敏であったり、人見知りが激しかったりという子供時代を送っていますし、今でも基本的には人見知りです。ですから、子リスが小学校時代、友達を作れるような機会を積極的に作る努力をしたかどうかと言えば、恥ずかしながら、私も「逃げて」いた部分が大きかったことを告白しなければなりません。
私がもう少し積極的で、物おじしない性格だったら、状況は随分違っていたかもしれない、と、それこそ子リスに申し訳なく思うことも多々ありました。

更に、子リスが、家に家族といるのが一番心地よいのであればそれでいいと、私もどこかで思っていました。ただ、「今はまだ」という条件付きで、です。
いつかは、この安心の空間から外へ出ていくのだと信じる気持ちと、「本当にその日は来るのだろうか」という大きな不安とを抱えて、長い時間を過ごしたような気がします。

子供が外へ飛び出したくなる時。親が、そろそろ羽ばたかせようとする時期。それが、絶妙なタイミングで一致して、具体的に動き出す時期というのが、あるのかもしれないと思います。その時期は、人それぞれで違うと思いますから、yasutomiさんが今、真剣に取り組みを始められ、お子さんも前に向かって進み始めているとしたら、今がまさにその時期の一つなのではないでしょうか。

お互い、焦らずに、子どもをまるごと楽しみながら、取り組みを進めつつ、子供との時間そのものを大事に過ごしていけたらいいですね。
(…と、今は子どもが寝ているので気持ちに余裕があり、こんなことも書ける私です…)

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しまりす

お久しぶりです。日記拝見させていただいてます。
私も子どもの時花火がダメでした。両親が花火に連れていっても、すぐに泣いて、そのうち、花火には行かなくなりました。でも、花火を見たいという思いはありました。
実は、私は今でも自分から話をしたり、自分の気持ちを言ったり、表現するのが苦手です。声をだして笑うことができなかったのですが、ここ数年で徐々に出来るようになりました。きっかけはよくわかりません。
どうしたら自己表現ができるのか分からなかったのですが、朗読も効果があるという話を聞いて、自分が子どもの頃、家や親戚の家で大きい声で本を読んでいたのを思いだしました。今思うと、自分を表現したいという思いがそうさせていたのかもしれません。そのうち、その行為も自分がおかしいのでは?と感じて、やめてしまいました。
おかあさんリスさんの日記を拝見して、怖くてもやめないことが大切なんだということを学び、私は話をすることを諦めずに、もう一度向き合ってみようと思います。朗読教室に通ってみようと思い、教室を今探しているところです。
おかあさんリスさんの日記を拝見させてもらっていると、理解してもらえる人がいるんだと安心し、勇気づけられます。
子リスくんの様子を読ませてもらってると、自分もそうだったとおもうことがたくさんあります。心の寄り添いが、とても大切ですね。子リスくんの成長を心からお祈り致します。

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おかあさんリス

子リスのことに、共感してくださるところがおありだということは、私にとっても、とても嬉しく、心強い思いです。また、温かいお言葉もいただき、ありがとうございます。

難しいと感じることに対して、ご自分でいろいろな努力をしてこられたのですね。素晴らしいと思います。それと、

>自分を表現したいという思いがそうさせていたのかもしれません

これは、子リスにも、また私自身にも言えることだと感じます。

自意識が強くなってしまう時に、緊張感から、緘黙を含めいろいろな症状が出てくるのではないかと思いますが、その根底・前提には、「表現したい」という気持ちがあるのだと思うのです。もしかしたら、表現したい気持ちは、人一倍強いのかもしれない。そんな風に(子リスと私自身に関して)感じています。
だから、何らかの形で自分を表現する術を持った時、周りの世界が少しずつ違って見えて来たり、自分の居場所を見つけられたりするのではないか、とも思います。それは仕事かもしれないし、趣味かもしれないし…また、一緒にいる人間によっても、変わってくる可能性はありますよね。

私自身も、まだまだ「もがき」途中ですが、しまりすさん、応援しています!
のんびりしたり、「ここぞ」というところで踏ん張ったりしながら、頑張っていけるといいですよね。

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